第3章 社会教育団体としてのPTA
第3章 社会教育団体としてのPTA

【第3節 教育充実のための諸活動】教育充実のための諸活動

(1)日教組へのスト回避要請行動

昭和40年代に入っても、政府の教育政策に反対しての日教組の闘争活動は引き続いた。教職員のストがあるたびに、日本PTA全国協議会では、当事者たる日教組と文部省に対して、学校教育の正常な実施がなされるよう要請活動を精力的に行ってきた。

昭和41年(1966)10月、42年8月・10月、43年10月、日教組の休暇闘争に当たって、文部大臣、日教組委員長に要請書を提出するなど、両者の間で事態の収拾に向けて必要な対応を取るよう要請を行っている。

しかし、40年代後半は労働運動一般の激化とともに、日教組の闘争も高揚し、学校教育の適正な実施に深刻な影響が懸念される闘争形態が組まれていった。 日教組は、このころ人確法・教頭職法制化反対、賃上げ要求、5段階賃金制導入反対などにより、スト実施を含む闘争を計画していた。

これに対し、日本PTA全国協議会は昭和48年(1973)4月に、スト中止要望書を日教組、文部省へ手交するとともに、7月の休暇闘争について文部省に要望書を、槙枝日教組委員長にスト回避要請書を渡した。

同時に、6月に会議を開き、PTAとしては人確法についてはその促進ということで意思を確認し、7月には人確法成立期成大会に参加し、さらに、昭和49年(1974)3月には教頭職法制化の早期実現陳情書を教育8団体のひとつとして発表した。 さらに4月、5月のも、日教組ストの中止を要請する要望書を各県教組へ手渡した。

昭和50年(1975)12月に日教組は全国統一ストを計画したが、これに対しても、文部省大臣,日教組委員長にスト回避の要望書を提出している。 昭和51年(1976)2月には、主任制問題について混乱を回避し、円満実施が図れるようにとの申し入れを当事者に行っている。

また、このときは、修学旅行の安全運送の確保につき国鉄、国労、動労に陳情を重ねている。 翌52年4月にも日本修学旅行協会と一緒に同様の陳情を行っている。

昭和50年4月には、教育関係8団体により「日本教育会」が設立された。
「文化と伝統を重んじ、時代の要請に応ずる教育の確立」を目的に、教育の正常化の推進などの方針を掲げた。日本PTA全国協議会は、校長会や高等学校PTA連合会などとともに設立に参加した。

(2)教育費充実への要請

また、40年代後半は、物価の急激な上昇に見舞われた時期であり、教育にかかる経費の高 騰はPTAにとっても大きな課題になっていた。

この時期のPTAの活動では、昭和47年1月、学校給食予算獲得への陳情活動、同2月公立学校授業料の値上げ反対陳情、11月には公立文教施設整備予算確保要望、12月学校給食補助要望を行い、昭和49年も学校給食用牛乳価格の年度内据え置き要望、2月には文部省大臣・社会教育局長に学用品、文房具類の値下げについて陳情活動を行っている。

(3)指導・啓発書の作成

PTAの在り方については、日本PTA全国協力議会ではこれまでも様々な啓発書を作成・発行してきた。

昭和40年代には、「望ましいPTA像をもとめて」(昭和40年)、「わたしたちのPTA」(昭和44 年)、「PTAの新しい使命」(昭和47年)、「PTA年鑑」(昭和47年。日本PTA全国協議会推薦・PTA新聞社発行)、「PTAの課題と方向」(昭和48年)が刊行されている。50年代に入っても、「PTAの活動のために」(昭和50年)、「PTA活動を円滑にするために」(昭和52年)、「よりよいPTA活動を求めて」(昭和54年)、「父母向け教育情報資料」(昭和56 年)、「80 年代のPTA像」(昭和56、57年)、PTAハンドブック「PTAのすすめ」(昭和58 年)などが刊行された。

(4)海外PTAとの交流

アメリカなどとの交流が引き続き行われている。昭和40年(1965)5月に、文部省の後援を受けて、アメリカ、カナダとのPTA交換視察団が3週間の予定で出発している。 昭和46年(1971)6月には、欧州教育事情視察団が、昭和48年(1973)9月には欧州教育事情視察旅行団が出発している。

昭和52年(1977)4月には、全米PTA協会、ニューヨーク市PTA協会役員が来日。

翌53年2月には、国内交流研修(東部・西部)事業が開始されるとともに、第1回PTA海外教育事情視察事業が始まっている。全国的団体間の相互交流という形でPTA国際交流事業が行われていたと言えよう。

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