第1章 PTAの誕生と発展
第1章 PTAの誕生と発展

【第3節 PTA運動の主要課題】教育制度・条件の整備充実

1. 教育制度・条件の整備充実

この当時のPTAの活動は、戦後の学校関連諸制度の整備充実への要求が大きな活動の柱だった。
学校給食の制度化、2部授業の撤廃、校舎の増築、青年学級の創立、教科書無償配布、学校保健の実施など、文部行政に対して保護者の立場からの要望をまとめて要請するとともに、それを受けた文部行政の施策の実施に向けて、財政当局への要請活動を精力的に行うというものであった。
戦後の教育制度、教育の条件の整備充実に多く貢献を果たしたものといえる。

(1) 学校給食

この時期、PTA協議会としてもっとも大きな力を注いだのは学校給食の円滑な実施、そのための法制度化への要請行動であった。

ところで、学校給食は、戦前から貧困児童救済などの観点から行われていたが、戦争の深刻化とともに中止されていた。終戦後、昭和 21 年通牒「学校給食実施の普及奨励について」が発出され、極度の食糧不足に対処し、発育の助長と健康保持を目指して、全校児童対象に給食が行われることになった。

昭和22年(1947)1月からLARA(アジア救済連盟)の寄贈食料、元陸軍用缶詰の放出を得て、全国都市小学校児童300万人に対し、週2回実施され、さらに秋からは米国援助の脱脂粉乳も配給された。

ところが、昭和26年(1951)の講和条約の調印に伴い、GARIOA(占領地域救済資金)による小麦贈与が、6月末で打ち切られることになり、学校給食の継続が困難となった。

こうした状況でPTAをはじめとする関係団体や一般国民から給食実施への強い要請がなされた。 こうした熱烈な世論に答えて、学校給食継続の閣議決定が行われ、給食実施に必要な財源を国庫負担することになった。

しかし、また、昭和27年度予算では脱脂粉乳への国庫補助(小麦粉100グラム当たり1円の補助)が打ち切られることとなった。
給食費の父兄負担が大きく上昇するばかりでなく、ひいては学校給食を中止する学校が続出し、給食継続校においても給食費未納者が増加するなどの状況が生じた。

このため、全国的に学校給食法制定への機運が高揚し、PTA運動の最大の課題となっていったが、全国PTAが中心になって全国学校給食推進協議会を創り、活発な運動の展開を進めた。
こうした活動が実り、昭和29年6月に学校給食法が制定され、31年には小学校から義務教育諸学校全体に拡充された。昭和30年8月学校給食会法が公布され、学校給食用物資の供給体制も整えられていった。

(2) 学校保健・安全

同時に、子供の健康・安全の確保もPTAにとっては大きな課題であった。戦後の学校保健委員会ではPTAは大きな役割を果たしていた。そして、昭和30年(1955)5月には、児童の災害補償について衆議院文教委員会に要望を行うなど積極的な取り組みを進めていた。こうした努力の甲斐もあり、昭和33年(1958)4月に学校保健法が配布され、34年12月には日本安全会法が公布されるに至る。

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