【第2節 PTAの普及】全国組織への発展
2. 全国組織への発展
(1) 発展の萌芽
全国の学校にあまねくPTAが組織されるようになるとそれぞれの地域ごとの連合組織、さらに全国の統一的組織の結成が意識されるようになった。
昭和23年(1948)1月に、東京都私立中等学校父兄会連合会が明治大学で「日本PTA結成促進準備委員会」を開催した。
全国レベルでの一体的組織の結成を企図したものであった。
同年、6月には、東京都母の会が、父母会の連合組織を発展的に解消する意図で、上野の文化会館において「東京都父母と先生の会大会」を開いている。
同じく、5月には、神田の東京都教育会館で、教育技術連盟(出版社の小学館が後援する教育関係団体の主催で「PTA全国研究協議会」が開かれている。
これには、当時の森戸文相・CIEのネルソン大尉らが出席している。 11月には、早稲田大学で東京文理科大学内PTA研究会(教育誌「アメリカの教育」を出していた「アメリカ教育研究会」が支援)の主催で「全国PTA研究協議会」が開かれ、カロン博士などが出席し、助言している。
また、市町村、県レベルでの連合組織結成の運動も昭和23年(1948)、24年(1949)、25年(1950)とエスカレートしていった。
PTAの全国組織については、昭和22年(1948)年の「父母と先生の会‐教育民主化のために‐」(PTA結成の手引き)のなかでも、「学校を単位とした『父母と先生の会』がたくさん出来上がり、これが市町村毎に、更に府県毎に連絡をもった大きなまとまりとなって拡がり、最後に全国父母と先生の会協会が設立されるようになれば、『父母と先生の会』は非常に活発な活動をくりひろげることもできるし、大きな力となって教育の振興に、更には社会改良運動に貢献できるであろう」とされており、文部省としても当然の課題としていた。
ところが、CIEは、全国組織の結成は将来的な課題としては当然なこととしていたが、この段階では時期尚早と考え、組織化に難色を示した。 民主主義の原則に従い着実な各学校PTAの発展・充実という下からの盛り上がりを待つべしと主張し、全国単位ではもちろん県単位の組織化も拒否していた。
いたずらに全国組織化を促進することは、かえってPTAの健全な発展を阻害するものとの理由である。
CIEのこの方針はPTAに限らず婦人会や青年団でも同様であった。CIEの意向については、「こうした表面の理由の底意には、連合体を足あがりとするボスの跳梁と、行政支配の進出に対する警戒があったのではないか」とする見方もあった。
参考文献:「日本PTA30年のあゆみ」
日本PTA全国協議会 昭和53年5月
(2) 第 2次米国教育使節団報告書
こうしたCIEの方針が転換されたのが明確になったのは、昭和25年(1950)9月の第2次米国教育使節団報告書においてであった。
はしがきに
「日本における教育再編成の一環として教育委員会が市町村ならびに都道府県単位に設立されつつある。また、『父母と先生の会』の全国的な組識ができるようとしている。この両者ともに、民主的教育計画を全国的に展開させるのに重要な役割を演じている。」と述べているとともに、社会教育の項で「成人教育計画において特に奨励されるべき大きな力の源は二つある。それは、『父母と先生の会』とユネスコ関係団体とである。この両者はともに日本の将来に著しい貢献をなすことができる。そして、教師も教育家もこれらの団体への参加と、その目的及び計画の理解を高めるよう奨励すべきである。」とされ、PTAが日本の民主化にとって大きな役割を果たしていることを評価するとともに、PTAの全国化を強く奨励している。