【第2節 PTAの普及】全国団体の組織化
3. 全国団体の組織化
昭和25年(1950)に入ると、文部省は全国組織の結成を積極的に指導するようになる。 2月、神田の共立女子大学において、全国組織結成に向けて、文部省主催の第1回全国PTA研究協議会が開催された。
全国及び、地方別のPTA連絡組織の結成に関して研究協議がなされた。
同年4月には、芝の慶応大学で第2回が、引き続いて第3回協議会は7月に神田の共立大学で開かれ、このときは「アメリカ父母と先生全国連合会」ジョン・ヘイズ氏が出席し、参加者を直接指導している。
そしてその年の11月にはお茶の水女子大学で「日本の父母と先生の会全国組織結成準備会」が開かれ、今後、全国8地区の代表者からなる常任委員会が準備を進めることが約された。
常任委員会は第1回会合が翌26年の1月に開かれ、順調に準備が進むかと思われたが、必ずしもスムーズにはいかなかった。いよいよの全国組織結成という段階にいたって、CIE側からは、地域からの準備委員が正当な地域代表ではないのではないか、全国組織が金銭に絡む不当な付帯事業をするのではないか 民主的な手続きをきちんととらないのでないか、などの疑念が出され、そのため議事運営がぎくしゃくした。 昭和26年(1951)3月、CIE・文部省・準備委員会委員長3者覚え書きが交換され、ようやく実質的に全国化が促進されていくことになった。覚え書きでは、
- 現在の準備委員会を改選し、新たに会員の代表を選出すること、
- 新準備委員会は全国組織の会則の作成に専念すること、
- 事前に全国の各学校PTAの意見を聴取すること、
とされた。
(1) 日本父母と先生の会全国協議会
昭和26年(1951)9月にサンフランシスコ講和条約が調印され、占領軍の引き上げ準備が始まるとともに、全国化へ向けての準備が加速していった。
しかし、その後も、全国組織をアメリカの協議会と同じように個人の加盟にするのか、それとも団体の加盟にするのかという点についてのCIEそのものに意見の食い違いもあり、会の組織編成を巡って議論が迷走することもあった。当初、会員資格問題について、CIEは個人単位の、自由加入にするとしていたが、その後、逆に団体による加入が主張されるようになった。日本側の関係者は、当初から、各学校PTAが自動的な一律の加入になっていることから、全国団体だけが個人加入とすることには無理があるとして、団体加入制を考えていた。
しかし、ついに、昭和27年(1952)10月に、東京で「日本父母と先生の会全国団体結成大会」が開かれ、念願の全国団体が結成されることとなった。
構成は各都道府県と6大都市の協議会が単位として、参加することとなった。(当初は、岩手、秋田、奈良、滋賀、山口、香川、高知の7県、京都、大阪の2大市を除いての出発となった。)
なお、同年、11月には全国高等学校PTA協議会も結成されている。
(2) 第1回全国PTA研究協議会
日本父母と先生の会全国協議会は、翌昭和28年(1953)8月に、三重県宇治山田市において、第一回全国PTA研究協議会を開催した。1,300名の参加を得て、両親教育促進の方策、連絡協議会の運営、PTAの健全な発達のためのPとTの協力の在り方などを研究討議し、義務教育無償の貫徹、教育財政の確立、学校給食法の制定促進などを決議している。
団体の名称は、昭和28年「日本PTA全国協議会」に、翌29年(1954)8月には、「日本PTA協議会」に、更に、昭和32年(1957)8月には再び「日本PTA全国協議会」へと変更になっている。
参考文献:「日本PTA30年のあゆみ」
日本PTA全国協議会 昭和53年5月