第2章 PTA活動の定着
第2章 PTA活動の定着

【第1節 日本型PTAの定着】PTAを取り巻く環境

(1)急迫する公教育財政

昭和22年(1947)4月、学校教育法が施行され、6‐3‐3‐4の学校制度が発足したが、戦後の荒廃の中、新たな学校制度の実施にはきわめて多くの困難を伴わざるを得なかった。

特に、中学校は、何らの母胎や下地をもたずに発足したため、校舎・教室の不足は深刻を極めた。青空教室や2部・3部の不正常授業を余儀なくされ、また、教員も定数を満たすだけの人数を集められず、必要な免許状を持たないものも多数いるという始末であった。

殊に、昭和24年(1949)度の政府当初予算において、超均衡予算(ドッジラインによる)のあおりを受けて、6‐3制施設予算は全額削除されるという重大な事態に陥った。 このため、全国170に上る市町村では予算が執行できず、市町村長の引責辞任や住民によるリコールにまで発展するなど、非常な混乱を引き起こすこととなった。 (紆余曲折の末、最終的に昭和24年度予算の教育費は1割カットで成立することになった。)

こうした戦後の教育財政を含めて、国家財政が著しく逼迫する事態に直面しては、親たち自らがPTAを通して、学校施設設備の確保など学校の支援に積極的に乗り出していかざるを得ないのも頷けるところであった。
学校の運営費用は当然公共団体として公費で賄うべきであるとして、また、PTAは本来、学校の後援団体ではないとしてPTAがこの時期、学校の支援を行なうことが不適切だとする見方は、当時の日本の財政事情のもとでは、理想論にすぎないものではなかったか。

そうした活動は、親や地域の人々の学校に対する強い支持、厚い信頼感を示す行動であったし、結果としても学校制度の草創の混乱期を乗り越えさせた大きな原動力となったものとして、むしろ評価されるべきことではなかったと思われる。

(2)米国PTAとの乖離

これまで述べてきたように、日本のPTAはアメリカのPTAを手本にして、アメリカの指導のもとに作り上げてきたはずのものであったが、その実態としては、当初の意向とは異なって、良くも悪くも日本独自のPTAとして誕生・定着した感が強い。

アメリカのPTA運動は、1898年( 明 治 31)に「 全 国 母 親 協 議 会 」( National Congress of Mothers)が結成されたところから始まっている。
その後、1907年(明治40)からは教師も加盟するようになり、1924年(大正13)に「全国父母・教師協議会」(The National Congress of Parents and Teachers)が結成された。

アメリカのPTA運動は、自分の子供の通う学校に限定することなく、広く全国、全世界の子供の環境改善に関心を拡大し、すべての子供たちの福祉を目指した一種の教育運動である。
このため、その組識も 学校を単位とするばかりでなく、地域や教会等を単位に組織されるし、また、通学する子供の親ばかりでなく、広く地域の人々が加入する。
活動の趣旨に賛同することが要件であり、逆に、子供を学校に通わせている親でもその意志がなけれが加入する必要はないし、現にそうした親も少なくない。
全米の小・中・高等学校の約7割ではPTA組識が未結成か、あっても全米PTA協議会には未加盟という状況である。

また、単位PTAは地域、州、全国のPTA団体の基礎であり、全国組織の方針は単位PTAを拘束する。会員は各階段のPTA組識の会員であり、それぞれの会費を負担する。

団体では、会員の社会的視野を拡大するために、会員自身の自己研修に重点を置いており、資料の作成配布、講演会の開催など両親教育のための活動に力をいれている。
子供の福祉を目的に様々な活動をする団体といえよう。

これに対し、日本では、戦前から学校単位に児童生徒の保護者によって組織される、その学校支援のための学校後援会の伝統があり、また、戦後教育財政の窮乏の中で、学校支援が緊急の課題とならざるを得なかったことなどから、個々の学校問題を離れて、子供一般の福祉の向上といった社会教育団体としての活動は定着しなかった。

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