第2章 PTA活動の定着
第2章 PTA活動の定着

【第1節 日本型PTAの定着】教員(組合)と親の軋轢

(1)教育委員選挙をめぐって

戦後の地方教育行政では、中央集権を廃して地方分権により運営するという観点から、教育委員会法の制定をみた。
住民の選挙により、選出された教育委員の合議制による執行体制がととのえられることとなった。

その教育委員の第1回目の選挙は昭和23年(1948)10月に行われた。
都道府県、5大都市のほかに46市町村において定数の半数について選挙が行なわれた。 しかし、その結果は、全国の投票率が6割以下、東京都では29%という低率に止まった。 住民の関心が一向に盛り上がらないままでの選挙に終わった。

「立候補の方も教育委員の地位を何かに利用しようとする人やその他の不適格な人が少なくなかった。」と新聞社説に書かれる状況であった。
また、都道府県の教育委員を職業別で見ると、4年委員138名中54人が日教組推薦その他教員2名となっている。

昭和25年(1950)11月には、第2回の選挙が実施された。 一般市町村は27年まで設置義務が延期される法改正がなされていたので、15都市だけであった。

この結果も低調で、東京23区が平均17.5%(都全体では21%)、投票率が5割以下のところも16都道府県に上った。
都道府県全部の平均で52%(対前回比マイナス5%)であった。

「選挙民の関心がうすく、選挙に金がかかりすぎるので組合など組織の代表者が多く、教育委員会の中立性がかえって失われるという任命論者のあげる諸点も無視するわけには行かない。」
などと新聞の社説で指摘される状況であった。

一方、PTA役員による立候補なども目立った。
PTA 役員の立候補資格の有無、あるいは立候補の是非などについても議論がでたが(昭和23年3月4日の文部省社会教育局長名の行政実例では、教育委員がPTAまたはその連絡組識の役員になることは、法的には何の問題もないものの、実際問題としては好ましくない。 PTA 自体が教育委員立候補者の推薦団体になることも好ましくないとの判断を示している。)

結局、第1回目の選挙では、PTA関係者12人が当選している。
昭和27年(1952)10月には第3回目の選挙が全国の全市長村において行われた。
もっとも市では1割、町村では半数が無投票であったが。

全市の候補者1,542人のうち、約6分の1の295人がPTAからの立候補者であった。
また、PTAの中には政治団体として届けたPTAもあったという。

こうしたことについて、教員組合の推薦する候補者に対抗するために、占領軍がPTA推薦の候補を立てさせ、そのことによって、父母の側と教員の側に分裂を生じさせたとみる論評もなされたほどである。
ともに協力して教育問題に対処していくべき父母と教員の間に、教職員団体を間に置きつつも、浅くない溝ができることとなっていった。

(2)教育2 法案反対闘争をめぐって

親と教員が教職員組合の運動を間に挟んで対抗せざるを得ない状況は、教員の争議行為を巡っていっそう深刻な事態を迎えることとなった。

昭和29年(1954)1月、中央教育審議会は「教育の政治的中立確保について」答申し、政府はこれに基づいて、選考や研修における教員としての特例的な扱い、教員の政治的行為の制限を内容とする「教育公務員特例法一部改正法案」と、義務教育教員の政治活動の禁止を内容とする「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法案」を国会へ提出した。

これに対して、日教組は同年3月、一斉振り替え授業による闘争を行うなど、教育2法案反対闘争を展開していった。

さらに、昭和31年(1956)6月には教育委員会法が廃止され、新たに「地方教育行政の組織及び運営に関する法案」が成立することとなるが、これに対しても日教組は激しい反対闘争を展開した。

PTA 全国協議会は、円滑な学校教育の推進を願う観点から、日教組に対して活動の自粛を要請するとともに、併せて文部省に対しても同様の観点から行政上の配慮を求めた。
昭和32年の11月には、日教組の一斉早退に対しても自重方を要請するなどの行動をとっている。

(3)勤評闘争をめぐって

さらに、父母の間に教員に対する信頼感を失わせることが起きる。
昭和33年(1958)から始まるいわゆる勤評問題である。
これを境に親と教師との間の溝は決定的なものになった。

この年の7月、文部大臣は全国都道府県知事会議で教員の勤務評定の完全実施を要請した。 これに対し、8月、日教組、総評は勤評反対を表明し、民主教育を守る国民大会を開くなどして反対運動を進めた。

さらに、9月には日教組勤評反対全国統一行動を、10月には第2次の全国統一大会を展開していった。

同年7月に小樽で開かれた第6回全国PTA研究大会では、第1分科会の研究テーマが「PTAにおける政治活動の意味と限界について」であったこと、また、その会の助言者に文部省の担当官が出席していたことから、PTAに文部省が圧力をかけているのではないかとして、分科会が紛糾するなどした。

大会の前日、日教組委員長が同様の趣旨の談話を発言し、当日は灘尾文部大臣が「勤評問題にPTAの協力を求める」との談話を寄せるなどしていた。

こうした動きに、日本PTA全国協議会は8月のの総会において、反対闘争の手段として教壇放棄、登校拒否などにより、児童生徒を犠牲にする行為は断固として排撃するとの声明書を出し、勤評そのものの是非の判断は保留し、闘争手段については反対の態度を明らかにし、闘争の見直しを求めた。

日本PTA全国協議会の声明の動きに対して、ある新聞の社説では、 「PTAは学習、話し合いの場であり、特に全国組織としての日本PTA全国協議会としては、あくまで、賛否の決をとったり、多数決の決議をするような機関ではない。
政治的なテーマについて声明書を出すことは行き過ぎだ。」とするものもあった。

確かにPTAは学習、討議の場であるが、だからといって団体として何らの態度表明もできないとしたら、子供の健やかな発達を最大の眼目とする団体の目的を全うすることができない場合がでてくる。
子供の教育を阻害する違法なスト活動について反対の意思を表明し、そのように活動することは、PTAとしては当然のことであったであろう。
いずれにしても、日教組のストライキを含む激しい闘争に対して、子供の正常な教育を確保する立場から、PTAとしては、心ならずも教員と対抗せざるを得ない状況へと追い込まれていった。

このページのトップへ